あの時の決断がなかったら…どうなってたんかな?
と今でも思うくらい自分の人生って先がなかった。
決断したんだから、今更そんなこと考える必要はないんだけど、、、
自分の想像を遥かに超えてくるような出来事って人生の中でたまにあると思うんですが、
自分にもそういう出会いがあって、
中に眠っていた「何か」を呼び覚まされました。
なんか物凄い世界を見てしまったな〜と興奮して衝撃を受けたんです。
本物の音とかリズムとか何も分からなかったけど、
めちゃくちゃ大切な世界を「ちらっ」っと一瞬だけ見せてもらったような感覚。
うわっ、もっと見たい!
それが、
スペインで見たトマティートの演奏です。
自分の人生最大の衝撃を受けて、
そこからフラメンコギターの道に進んで行ったんです。
きっとトマティートが、自分の中に眠っていた感覚をうまく代弁してくれたんでしょう。
自分はもともと音楽をやってたわけじゃなく、
学校でも音楽の授業があまり好きじゃなかったけど、、、
そんなキッカケがあって始めたんです。
これやらないと絶対後悔するなって。
すでに25才にはなっていましたが…
そして、とりあえず「ギターが必要だろう!」と、
新聞ですぐに調べて、
何が何なのかサッパリ分からないまま、
なけなしの3000ペセタで量産品のギターを買いました。
今度は先生探し…
フラメンコギターを教える先生を、
人伝てに、2人を見つけた。
まずはそのうち2人のどちらかに
決めるために見学に行こうと電話したら、
「夕方4時に来い」という返事。
初めての体験だからと気合い入れて行くものの、
「オメェー何も弾けないじゃねぇかーーー!」と一蹴。
「えっ、弾けないから来るんでは?」と、
内心突っこんだが、さらに追い討ちをかけて来た。
「20才越えてギターを弾けるようになった奴はいない!
どうせやっても無駄だからやめとけ!」
と、二人からペシャンコに打ちのめされ、仕方なく独学で始めることに。
これらは全てスペインでの物語です。
後で知ったことなんですが、
趣味でやってる人のための教室というのがスペインにはなかったらしい。(当時の話)
どうやらスペインでは、
みんなお金を稼ぐためにギターを弾くらしい…
まさか自分がプロギタリストになるって、
フツーは最初からそんなこと思いもしないよね?
まぁ、そんなこんなでギターを始めました。
完全にあの衝撃で人生変わってしまったんです。
何回も言いますが、それが、
トマティートのギターです。
そして2018年現在で、20年間ギタリストとしてやってます。
ここで自分の人生を振り返ると
子供の頃は、野球と釣りに明け暮れ、
小学校高学年からは美術(油画)を始め美術高校へ進学するも、
想像していた世界とのギャップに絶望する。
そんな中で夢と希望を求めて自転車で上京し、
しばらくはパチンコで稼ぎながら生活。
弁当工場や佐川急便や居酒屋店員やパチンコ屋店員、
植木職人を経験しながら、悶々とした日々を送る。
あ〜思い返すだけでもグッタリしてしまうような、
先がなにも見えない状態が続いていた生活。
そんなある日、
アパートの大家さんから退去通知が…
大家さんの奥さんが病気になってしまい、
銀行から今ならまだギリギリ借りられる…
今しか建替えるチャンスがないんだ!
と、言われた。
そんなこと言われても正直困ったが、なんだか可哀想になってしまい、
法律のことなど全く知らない自分は何の交渉もせずに出て行くことに。
慌てて友人に引越し先の相談をしたところ、
意外な答えが…
スペインに行ったら???
えっーーー、スペイン?
と思いますよね?
自分は思いました…流石に。
まさかでした。
そしてさらに
物価が安いから3ヶ月で10万円もあれば余裕で暮らせるよ!
と甘いことを言われ、
マジでそんな国があるんだ!?と衝撃でした(笑)
とりあえず3ヶ月間行ってみて、
それから人生考えてみてもいいな…
今の人生よりはどう考えても良くなるだろう!
と都合よく思い即決。
数日後には全財産かき集めて航空券を購入。
アエロフロート。62,000円でした。
さて、1ヶ月後の出発に向けて、日雇いの仕事を毎日入れてなんとか15万円を捻出。
そして、スペインへ出発!
どこか多少の不安や淋しさを感じてはいたけど、
夢と希望を信じて行くしかない!という気持ちの方が
圧倒的に強かった気がする。
そんな心境の中、無事マドリッドに到着。
片言のスペイン語で教えてもらった通りに電話して、
共同アパートでの初めての海外生活が始まった。
(後でわかったんですが、マドリッドの中でも相当治安が悪いとこでした)
そこに居たのは、スペイン人、チリ人、コロンビア人、アンゴラ人、イタリア人など。
家賃は20,000ペセタ(18,000円)。
今のマドリッドはロンドンと同じくらい鬼高くなってるけど1994年はそんなもんでした。
で、ここで笑撃なんですが、あれっ?さっき3ヶ月10万だったはずが、
1ヶ月で15万円が底を尽きました。
ヤバイぞ!ヤバイぞ!
これはどー考えても帰るしかないな〜(゚o゚;; と慌てふためいていると…
アフリカから来ていたアンゴラ人が言いました。
1億2千万人もいる日本へお前が帰ったところで何が変わるんだ?
喜ぶのは親兄弟と友達くらいなもんだろう?
そんな日本へ帰るよりここで人生を見つけろよ!
俺も人生を見つけにここへやって来たんだ!
なんだかすごい説得力を感じたなぁ…あの時。
まぁ〜それもそうだな…少しスペインで頑張ってみよう!
そう決断すると、周りの人達が色々アドバイスをしてくれ始めた。
ちょうどその頃、
スペインが外国人のために労働許可証を取得できるキャンペーンを実施してるから、
申し込み用紙を貰いに行け!と手始めに教えてくれた。
なにせ世界中の人達が労働許可証を取得するために
労働省に用紙を取りに行くわけなんで、用紙なくなったらヤバいんですよ。
申請すら出来なくなるので。
なので、前日の22時に行ったんです。
まぁ〜朝10時に開くまでの12時間ぐらいは待てるだろうと。
そしたら、そんな甘くはなかったんですよ。
すでに5〜600人くらい待ってたんです。
もう、ズラーーーーーっと。
見渡す限り日本人は自分だけで、
後は南米人とかロシア人、ルーマニア人、アフリカ人。
その後も続々と列が出来て行きました。
1月のマドリッドって物凄く寒いんです。
そんな中待ってたんですが、
他の人たちは車で来ているので、
仲間と交代しながらたまに中で休んでるんです。
羨ましかったというよりは情けない感じでした。
そして、朝10時に開いて順番がきて無事貰えたんですが、
申し込み用紙は余るほどありました。(笑)
まぁ〜スペインは日本の常識では考えられないことが普通なので、
念には念を入れて…です。
で、その後、やることは3ヶ月以内に働き口を見つけて、
そこの経営者のサインを二人分用紙に書いてもらう。
(スペインでは複数人経営者がいる)
で、それを労働省に提出して、
数ヶ月待って受かれば仮の労働許可書が発行され、
それを東京の大使館に持って行って
手続き完了したら労働許可書が貰えるという流れなんです。
まず、マドリッド中の日本レストランを
回って求人があるかを探してみることに。
人に聞いたりして紆余曲折しながら
やっと見つけたが、完全なブラック企業。
よくあると思いますが、
雇う前と後で話が全然違ったんです。
1994年当時、
スペインの最低賃金が80000ペセタだったのに対して30000ペセタ。
食事付きのはずが白ごはんだけ。
その他色々数え切れないほどあったが
何としてでもサインを貰わないといけない。
だから、ずーーーっと我慢してた。ずっと黙って。
でもサインしてくれそうな気配がないので、
たまに訊くも、今やってるから!と言われる。
それを信じるしかない。
そうこうしてるうちに、3ヶ月が経とうとしていた。
幾ら何でもそんなにかかるわけがない。
というわけで、再度訊いてみたが同じ返答。
それを繰り返しているうちに
だんだん怒りが込み上げて来ました。
そんなある日、
もう一人のスペイン人経営者が
たまたま店に来たので、事情を説明してみた。
すると
そんな話聞いていないぞ!その申込書を見せろ!すぐに書いてやるから!
と言って、ホントにすぐに書いてくれた。
あ〜救われた!と思いました。
と同時に、自分は日本人に騙されていたとその時に確信した。(遅すぎる汗)
なかなか気が済むような問題ではなかったが、
そんなことより店をその場でやめて、急いで労働省に書類を提出しに行った。
書類を提出している期間は申請中の控えさえ持っていれば
問題なく滞在できるので、この間に「新たな職場を!」とも思ったが、
かなりの人間不信になっていたので、
それはやめて自分の力で行き抜く方法を探すことにした。
自力で生きる決断!
元々絵は描いたりできるし、
日本の植木屋で働いて外構の知識もあったので
その路線で仕事を探すことにした。
すると、ラッキーなことにピソの一階で美容室をしていた
ミゲルが、近々喫茶店を始めるから内装を手伝って欲しいと言ってきた。
大した報酬ではなかったが、
日本レストランよりは遥かにましである。
丁寧に一生懸命仕事すると「さすがは日本人だ!」と噂が噂を呼び、
壁画を描く仕事やタトゥーのデザインなんかも頼まれるようになった。
そんなこんなで毎日、
油画や版画の作品を制作するようになり、
その後作品を売るために3ヶ月に一度、
ギャラリーやカフェで個展を開催するようになりました。
ところでみなさん、絵が売れるって噓みたいでしょ?
自分も最初は絵が売れるなんてことが現実にあるわけないと思っていたんですが、
実際、売れるんです!
スペインは、日本と違って部屋に飾る習慣があるんです。
しかも若い子が買ってくれたりする。
スペインでは窓のない部屋が多いので窓代わりに飾ると言ってました。
話を戻します。
展示した作品のほとんどが売れるようにはなったけど、
それでも問題はあった。
売れてしまうと当然収入が途絶え、
次の個展の制作をする傍らタトゥーのデザインをして糊口をしのぐ生活。
全く先の見えない生活
なんとかしないと…
そんな時、街に出るとチラホラ見かける
ストリートミュージシャンが目に入ってくる。
前に置いてあるケースには
いつも何枚かの硬貨が入っている。
あれって本当かな?
果たして彼らはあれだけで生きてるんだろうか?
そんな疑問を持っていたある日、共同生活してるドイツ人が
今夜、入場無料のコンサートがあるよ!
トマティートという超有名な
フラメンコギタリストが演奏するらしい。
行ってくれば?
なんか気になるな…
暇だし無料だし行ってみようかなと、
プラサ デ ラス ビスティージャスまでGOでした!
どうせなら一番前で見ようと、
20時開演だというのに18時に到着し、しばらく待つことに…
ところが、20時になってもトマティートはおろか、観客も誰一人来ない。
あれ、おかしいな?と思いつつも、
まぁスペインだからなぁ〜と待ってると徐々に人が集まってきた。
そして、22時頃にトマティートが出て来た。
ちょうど3月の終わりで肌寒く
タートルネックのセーターを着てて真面目そうに見えたが、
クルクルの髪の毛がいかにもヒターノって感じがした。
衝撃の演奏開始!
今思い返すと、一曲目はミネーラで、続いてアレグリアス。で、ブレリア。
言葉では表現しきれないのですが、
フラメンコギターすごい!
トマティートすごい!
とかまぁここまで自分の感覚に迫ってくるものはなくて…
と、とにかくビリビリ痺れまくった。
で、冒頭の話に繋がるんだけど、
もしあの時トマティートの演奏に触れなかったら…
フラメンコギター自体やっていたかどうかわからないし、
スペインに行ってなかったら間違いなく出会うことはなかった。
ましてや2人の先生からは20才越えたら
フラメンコギターは無理だと言われたのに、
ならば独学で!となったぐらい自然とやったし。
諦めるという選択肢は全くなかった。
普通は褒められてはじめるもんでしょ?
で、どうやってギターを覚えて行ったのか?
最初は、フラメンコ自体が何かわからないわけで
当然、クラシックギターとの違いもわからない。
もうなんでもいいから弾けるようになろうと
ストリートミュージシャンから技を盗もうと街へ出たんです。
でまず、誰かを参考にすることにして、
そのギタリストを探しにいったんです。
いつもスペイン銀行の地下道で
弾いていたナチョというギタリストがいました。
あーこの人だな!って思って斜め前から観察することにしました。
相手はスペイン人なんで、「オラ〜!」とニッコリ笑ってくれて
何の問題もなし。
そして、2日続けて盗みに行ったら
大体の流れはわかったんです。
何を弾けば人は立ち止まって、お金を入れるのか。
その中でもアルハンブラの思い出は圧倒的に人気でした。
携帯がない時代なので、カメラも持っていなかったので
奏法は頭で記憶して、音はテープで録音させてもらって、
コードは絵で書いて覚えることにしました。
時間だけは莫大にあったので、
それからは毎日毎日練習を繰り返しました。
10〜17時間はし続けました。
こんな感じで、時間をある程度掛ければ、
数日間で最初の部分くらいはなんとか弾けるようになり、
ついに念願のストリートに出ることにしました。
初日は、レティーロ公園入り口にあるトンネル。
ナチョのようにアンプも無いし、
生ギターの音で、しかも腕前もしょぼいので、
響くように出来るだけ細いトンネルを選んだんです。
5時間弾いて、150ペセタ入りました。
飛び上がりました。
いや〜嬉しかったな…マジで有頂天です。
あり得ないでしょ?
ほぼ弾けもしないのにお金が入るなんて。
えーっ、嘘でしょ?って思いましたよ。
150ペセタと言ったら、円で言うと130円くらいなんですが、
それだけあれば一日なんとか生きれます。
プランスパン一本40ペセタで、
スーパーに行けばハムとかチーズは切れ端をくれたりするんです。
マドリッドは水道水が飲めるし最高です。
この日から毎日、
路上に演奏しに出掛けるようになりました。
外でギター弾いては、
部屋で作品を制作して、
たまに壁画やデザインの仕事を受ける
といった流れの生活になりました。